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藤原兼房 (太政大臣) : ウィキペディア日本語版 | 藤原兼房 (太政大臣)[ふじわら の かねふさ]
藤原 兼房(ふじわら の かねふさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。
== 生涯 == 仁平3年(1153年)、関白・藤原忠通の十男として生まれる。応保2年(1162年)に10歳で元服し、従五位上、次いで正五位下に叙され、さらに禁色を許され侍従となった。長寛元年(1163年)に左少将、長寛2年(1164年)には左中将となり、仁安元年(1166年)に14歳で従三位に叙され公卿に列した。しかし同母兄の兼実が「才漢なし、労積なし」(『玉葉』建久2年3月28日条)と語るように才覚や見識には乏しく、永らく議政官になれず非参議左中将に留まった。寿永2年(1183年)4月には、位階も年齢も下だった藤原頼実が権中納言に任じられることになり、兼実を落胆させている(『玉葉』寿永2年4月3日条)。同年8月に兼房も権中納言に昇進するが、11月の法住寺合戦では院御所に参入していたため戦闘に巻き込まれ、一時は消息不明となった。これを聞いた兼実は「日来籠居の人が何故この日に限って参院したのか」と嘆息している(『玉葉』寿永2年11月19日条)。 その後は、元暦2年(1185年)に権大納言となって兼実の嫡子・良通の官位に追いつき、文治5年(1189年)には正官の大納言となるなど、兼実の支援もあり順調に昇進する。建久元年(1190年)、左大臣・徳大寺実定が辞任したことで後任人事が焦点となり、花山院兼雅は叔父の中山忠親を内大臣にするよう後白河法皇に願い出る。これに対して兼実は、大納言序列二位の忠親が序列一位の兼房を超えることに反対した(『玉葉』建久元年4月18日条)。この時は兼実の意見が通り、7月17日、兼房は内大臣に昇進した。ところがそれから一年も立たない建久2年(1191年)3月、後白河院は兼実に対し、兼房を太政大臣に昇進させて空いた内大臣に忠親を任じるよう命じた(『玉葉』建久2年3月10日条)。兼実は「太相近代大略棄て置く官なり」として内心不満だったが、この人事案を受諾した。これにより兼房は朝議を主催する一上への道を閉ざされることになった。その後、太政大臣に5年間在任したが、建久7年(1196年)11月28日、建久七年の政変で兼実が失脚した煽りを受けて辞任する。正治元年(1199年)に47歳で出家、建保5年(1217年)に65歳で死去した。 和歌を愛好し柿本人麻呂を尊敬していたという。藤原定家は「有職はないが、出仕していた時には追従・貪佞の心が無く、出家後は持律・浄戒で知られた」として、「末世に於ける賢者」と好意的に評価している(『明月記』)。
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